2013/09/25

不満は幻想


(アジャシャンティのサットサンより)

バイロン・ケイティをご存知でしょう。

彼女の話はまず


「どんなことに不平不満を感じていますか?」


こう問いかけることから始まるのです。




一般的にスピリチュアルの先生たちは


「愛とは...」

「平和とは...」


という感じで話し始めるわけですが




バイロンの場合は


「あなたは何が気に入らないんですか?

 どんなことが

 愛や平和や自由から

 あなたを遠ざけているのですか?」


いきなりそう問いかけるんですよ。

大したものですよね。




「あなたは何が気に入らないのか

 どんなことを批判的に見ているのか

 どうぞ話してみてください。




そう問われた人から

本音がたくさん出てくるんですね。


ほとんどの人は

そんな経験は初めてで

自分の中の不平不満に気付いて

ビックリするのです。



善良な人たちが(笑)

んなふうに本音を吐きます。



「スーパーで私の前に割り込んできて
 トマトを横取りした女性が許せない


    

「まったくもう腹が立つ!!」

    



それはナゼかと聞かれると



「だって

 人の前に割り込んではいけないでしょう?
 それがルールですよ

 良くないことです!!」




よくあるパターンですよね。


「こうあってはいけない」と

起こっていることありのまま

つまり「現実」に抵抗して

批判しているのです。



「こんなこと起こってはいけない」

「ルール違反だ」
「正しくない」と。





しかし「現実」は

そんな出来事にOKと言っているのですよ。



「割り込んでもいい

 だって

 彼女は割り込んだ。それが現実。

 それが あるがまま

 起こったことなのだから

 それでOK」







私のお気に入りのスピリチュアルの先生に

アンソニー・デ・メロという人がいます。


お会いしたことはないんですけどね。

彼の本を読んだことがある方もいらっしゃるでしょう。



彼はイエズス会の神父さんなのですが

完全に目覚めていて

実にすばらしい人なんですよ。



彼はかつてリトリートで

最初にこんなことを言っていました。



「ひとつハッキリ言っておきましょう。

 ここにいるみなさんは

 誰も目覚めたくないのです。

 目覚めのことなど忘れてしまいなさい。


 これから私が言うことを

 誰も聞きたくないでしょうが

 さあ、ハッキリ言いますよ。


 私もバカ。 あなたもバカ。

 それを受け入れましょう!




神父さんがこんなこと言うなんて

おもしろいですよね(笑)



自分たちはみんなバカなのだと

受け入れることができたら


「OK じゃあリトリートを始めましょう」


となるのですが



受け入れられないのなら

話にならないということなのです。






「覚醒」とは何なのか

彼はすばらしい定義をしていました。

最も的確な表現のひとつだと思います。




「覚醒とは何ですか?」という問いに対して



すべてに完全に協調すること」


と答えたのです。




すばらしい表現ですよ。




あるがままに

決して

抵抗したり反論したりしない

ということですね。




完全に協調すること。




本当の私たちは

すでに いつも その状態なんですよ。



過去に起こったことも

いま起こっていることも

これから起こるであろうことにも



すべてに

完全に協調すること。




完全に協調できないと言っているのは

思考だけです。


抵抗したり文句を言ったりするのは

ちっぽけな思考だけなのです。



ですから

自分の考えや思いの中で

真実ではないものは何なのか知りたければ

こう覚えておいてください。




過去に起こったこと

いま起こっていること

これから起ころうであろうと



そういった

どんなことにでも



完全に協調せずに

抵抗や批判をして

分離を創り上げていたら



それは真実ではなく

偽りの幻想なんですよ。








2013/09/20

逆効果

(アジャシャンティのサットサンより)

<アジャ>

退屈だということですが

あなたは

その状況をどのように捉えているんですか?



何かに抵抗したり反対したりすればするほど

それは しつこく付きまとうのだということを

思い出してくださいね。



あなたが抵抗して

退屈から逃れようとしている限り...

抵抗しているのはエゴなのですが



そうしている限り

調和」をエゴ的な視点から観て

退屈だと感じる状態から

ますます抜け出せなくなるんですよ





<質問者>

退屈に抵抗している限り?




<アジャ>

そうです。



「退屈」を嫌悪しなければどうなるか

試してみてください。




他のあらゆる状況と同じように

「退屈」にも

存在する権利があるのです。



「退屈」というのは

あなたがレッテルを貼らない限り

別に良くも悪くもないんですよ。



退屈はよくない」と判断した途端

分離の幻想を生み出してしまいます。



「退屈」は

単なる状況です。


他のどんな状況と比べても

優れてもいなければ

劣っているわけでもなく


あらゆる状況と同じように

存在する権利があるのです。



そして

あなたが「退屈」を拒絶せず

他の状況と同じように

存在する権利を認めたとき

「退屈」は無くなります。



あなたが

「退屈」が存在する権利を認めないでいると

かたくなに

そこに留まり続けるのですが



そこに在っていいのだと十分に認めると

「退屈」は消えていくのです。




試してみてください。

きっと驚くことになりますから。




<質問者>

わかりました。

ありがとうございます。







<アジャ>

何かに抵抗するということは

根本的に

あなたが何かに対して

そうであってはいけない」と言っている
ということなんですね



そうやって

何かが存在する権利を認めずにいると

それは

あなたの世界に
断固として居座り続けます



しかし

存在しても良いのだと認めると

それは
あなたの元から去っていくでしょう





私たちが教え込まれた常識で考えると

まるで逆ですよね。



でも

私たちが教えられてきたことのほうが

ほとんど逆なんですよ。

       



  







2013/09/19

何も望まないということ-2




そうなると

夢見の状態にあなたを留めておくものは
もう何も無くなります




私たちを夢見の状態に縛り付けるのは

感情的な固執です。


何かを望むということは

何かに執着しているということですからね。


自分と何かを
感情のヒモで縛り付けているので




ほとんどの人は

自分と「成果」を

感情のヒモで縛っています。




良い結果、好ましい成果

どこへ行きたかったのか、


世の中はどうあるべきか、

友達はどうあるべきか、

恋人はどんな言動をすべきか、


成果成果成果!!




そして過去さえもヒモで縛っています。

「ヒドいことが起こった!
 イヤだ。あり得ない...

なんて嘆いたりしてね(笑)




私たちは

過去をヒモで縛り

起きてもいない未来をヒモで縛り

自分が知っている人々すべてを

エネルギーのヒモで縛っているのです。




しかし

別の在り方もあるのですよ。



それが

スピリチュアリティーが深く成熟した状態です。



私はいつも不合理なこと」という言い方をしますね。

目覚めとは最も不合理なことです。


どこからともなく

特別な理由もなく

何かがやって来て

「もういい」という感覚になるのです。

あらゆる執着のジャケットを脱ぎ捨てて

「もう結構」と言うのです。



何かを握りしめたり
拒絶したりするような

感情的な固執は消え去るのです。



絶対的な真実が

あなたを目覚めさせ

あなたに寄り添います。




何にも固執しないで

人生が豊かで満たされた素晴らしいものになるなんて

夢見の状態の頭では

理解も想像もできないんですね。



何の固執も無いと聞いてイメージするのは

味気なくて 退屈で

活気がなくて

世を捨てて洞穴の中に座って

マントラを唱えているような

そんな状態でしょう。




「自由」とは何なのか

エゴには分からないのですから。





絶対的な真実から見れば

何かに固執するということは

どんなことであっても

苦悩であり

分離であり

つまならい堂々巡りの大騒ぎです。


そして必ず

そんなストーリーの結末には

苦しみが待っているんですよ。



固執すると

うまくいかない。



しかし

そういった固執が無いとき
「何か」があなたを導きます




それが何なのか分からないので

「何か」としか言えないのですが

あなたの中の 深い深い奥底で

思い当たるものかもしれません。



  










2013/09/18

何も望まないということ

こちらから訳しました。





伝統的なスピリチュアルの教えでは

「みなさんは

 欲望を持ち過ぎているのが問題なのですよ」

などと言っているわけですが

そのような教え方には問題があります。



そんな教えを聞いた人々は

自分の欲望を手放そうとするでしょう。



すると
「何も望まないようにしよう」という

新しい望みを生み出すことになるんですね。

     


欲望を手放せば

 欲しい状態を手に入れられるのだ」



「望むものが無くなれば
 望む状態になれるのだ



そうやって結局

また別の欲望につながっているでしょう?

おかしな話ですよね。





伝統的な教えとして

そんなふうに解釈されているのですが

それでは本末転倒です。





何も望まない状態というのは

目覚めの副産物なのです。


欲望が消えれば目覚める

ということではないのですよ。


望みを手放す必要なんてありませんし

そうしたからといって

目覚めに近付けるわけでもないのです。





目覚めによって何も望まない状態になる。

単にそれだけのことです。



高い意識」に浸っているだけでは

欲望はますます強くなるでしょう。

むしろ そういう状態のときに
最も欲望が強くなるかもしれません



しかし


絶対的な真実の深みへと

一瞬でも入り込めば

欲望が消え去ります。

いっぺんに完全には消え去らなくも

どんどん減っていくのです。

なぜなら

それが目覚めの副産物だからです。

どうやって欲望を手放せばいいのかなんて

知る必要もありません。

自然に無くなっていくのです。





そうやって

人生に何も望むことが無くなると...



こんなふうに聞くと

なんだか暗くて

創造性が無くて
有意義じゃない


そんなイメージを抱く人が多いでしょうが

まったくそうではありません。


「その男ゾルバ」のように

とことんやり尽くして何の望みもなくなると

まるで映画を観るみたいに

自分の人生を眺めるようになるのです。




成功するのかな?しないのかな?

素敵な人と結ばれるのかな?

覚醒するの?どうかな?

次に何が起こるのだろう?





映画館の席に座って

自分の人生の映画を観ている感覚になって

映画と同じように

次に何が起こるのか

とてもワクワクするようになるのです。



どんな結末になるんだろう。

うまくいくのかな?

解脱してブッダになれるのかな?

至福に包まれることができるのかな?

ハッピーエンド?


とても興味深いですよね




スピリチュアルな教えでよく言われる

「自由」や解放

真実への覚醒」は

そんな人生映画のストーリーの中で起こるのだと

何となく思っているでしょうが


実際はどんなパターンが多いかというと...



映画館で自分の人生映画を観ながら

あなたの中の何かが

「もういい...」と言う。

そんな感じで起こるのです。

実につまらない(笑)

こんなストーリーどうでもいい。
 
同じようなことの繰り返しじゃないか。


そして

席を立って映画館を出て行くという

非常に不合理な行動を取る。




何も解決していないし

結末がどうなるのか分からない


エンドロールもまだで

目覚めが起こるのかも分からないけれど

自分の人生映画を

最後まで観る気が失せるんですね。



あなたの中の何かが

「もういい。面白くなくなった。

 終わりにしよう。」

そう言って去っていくのです。



人生を終わりにするという意味ではありませんよ。

橋から飛び降りるとか

そんなバカなことを言っているのではありません。

そういうことをするということは

逆に
映画のストーリーにどっぷり浸って

夢中になっているということですからね(笑)


そうではなく

人生のストーリーがどうなろうと構わない」

という感覚になって

その瞬間 何かに
「そうか!」と気付くのです








続く