2014/03/05

非二元の教えのワナ


こちらからざくざく訳しています。


<アジャ>

真実への気付きが深まっていくにつれて
視界がどんどん大きく広がっていきます。
    
すると
まったく逆の視点、対極的な真実も
ますますハッキリと見えてきて
パラドックスは大きくなっていくのです。

たとえば

私とは何か?という問いに対しては

特定の誰か」であり、「誰でもない

一方では 特定の形であり
一方では 無である。

このような

まったく逆の視点を同時に持つということが
ごく自然で 簡単になっていくのです。



教えの場で 私が質問に答えるときは
それぞれの質問者の視点で話をしています。

多くの人は
自分にとって次のステップがどの方向にあるのかも
よく分からないのですから

「この質問者にとって必要な
 次のステップは何だろうか?

そこに着目して
その視点から話をするのです。

しかし大勢の人に向かって話すときは
特定の視点ではなく大きな視点から話すので
逆説的な描写も出てきます。

生そのものがパラドックスなのですよ。




<リック>

その言葉好きです。
前に「パラドックス」、後ろに「曖昧」と書かれた
Tシャツが欲しいな(笑)

ニサルガダッタが

逆説と曖昧さを
いかに理解し 受容しているかで
スピリチュアリティーの成熟度が分かる

そう言っていました。



<アジャ>

まったくその通りですね。


スピリチュアルの探求で
引っかかりやすいことがあります。

何らかの教えが
ある瞬間 自分にとってドンピシャで
目覚めに結びついたとしますね。
  
すると
マインドはその教えを

これこそ目覚めにつながる重要な教えなのだ
と思い込んで大切に握りしめるんです。

そして手放すのが難しくなっていく。

でも やがて
もっと遥かに壮大な真実を見るためには
そうやってガッチリ握りしめているものから
離れていかないといけないのです。


<リック>

悟りとは
思考を信じていないこと、ということですが

普段 人々は当然のように
思考を信じ込んでいるんですよね。


<アジャ>

そうですよ。

思考を信じている状態というのは
自分のことになると見えにくいんですよね。

たとえば
ある宗教の信者を見たりすると

「ああ、あれは原理主義だ」と
人のことは気付きやすいのだけれど
自分のことはなかなか気付かない。

原理主義というのは宗教だけではなく
どんなことでも陥りやすいんですよ。

非二元の教えだって同じです。


非二元の教えは
徹底した論理や理屈で固められているので
マインドは納得しやすいでしょう。

それは良いのですが
徹底しているがゆえに
原理主義に陥いってしまうことが
非常に多いのです。



<リック>

私も仕事で
こういうインタビューばかりしているので

非二元の原理主義に
引っかかったことがありますよ(笑)


<アジャ>

非二元の原理主義は守りが固いので
抜け出させるのは大変なんです。


<リック>

非二元の「原理主義者」は

まるで自分の今の状況が
誰にとっても効果的な処方箋なのだと
思い込んでいるように見えるのです。

たとえば

「探求をやめなさい」と言ったりしますよね。

そういう本人だって
ガッツリ探求してきたのに。

これは
山のてっぺんに登りついた人が
まだ登っている途中の人たちに対して

「登る必要はない」と
言っているようなものですよね。

的外れなように思えるんですが。



<アジャ>

その通りですね。

もう頂上に着いている人にとっては
立ち止まりなさいという言葉が
ふさわしい場合もありえますけどね。


まず どんな形であれ
目覚めについて話す立場の人にとっては
目覚めへの「戦略」を話すのが精一杯なんですね。

真実そのものについては
言葉にして話すことなど出来ないのですから。


で、戦略として話すとき
「探求をやめなさい」という言葉は

何年も何年も熱心に探求しつづけて
探求の固まりみたいになっている人にとっては
まさにその瞬間
劇的な効果を発することもあるでしょう。

探求そのものに夢中になりすぎて
見えなくなっていた目の前の真実に
探求を手放した瞬間
ハッと気付くことがあるんですね。
   

でも たとえば

ソファでビールを飲みながら
インターネットで何となく
教えに触れているだけの人にとっては

「探求をやめなさい」という言葉を聞いても
喜んで次のビールに手を伸ばすだけで
目覚めへの指標にはならないかもしれません。
  

「探求をやめなさい」という教えが
いつでも誰にでも適切なわけではないのです。

教えはクスリのようなものです。

たとえば
あなたがお医者さんだとすると

いろんな病状の患者さんが来るのに
全員にまったく同じ抗ウイルス剤を与えるなんて
おかしいと思うでしょう?
   

でもスピリチュアルの世界では
そういうことが時々行われているんです。

それから
あるクスリが自分に効いたからといって
そのクスリそのものを「健康」と勘違いする。

これもよくあることです。

教えは真実ではなく
真実へ戻るのを手伝うだけなんです。


<リック>

ブッダの教えにも
対岸に行きたいのなら
もう漕ぐのを止めて舟を降りなさい
という表現がありますが

まだ川の真ん中にいる人にとっては
「舟を降りなさい」という教えに従ったら
マズいことになりますよね(笑)
   
 
<アジャ>

いい例えですね(笑)

教えの効果というのはいつでも
聞く側にとってその瞬間
どんな教えが必要かによるのです。

特定の教えに引っかかっていると
役に立たないだけならまだマシで
妨害になることさえあるんですよ。




つづく

3 件のコメント:

  1. いつの間にか更新してるのですね。

    非二元の罠

    本当にそうですよね。

    アドヴァイタの教師もハマっていますね。

    表層で苦しんでいるのに、苦しんでいる個人はいない、と言っています。

    表層では、体があり個人である。

    内側深く入るほどに、個人は無くなる。

    狭い意識から見ると、どちらか一方が真実で、他方は幻想に見えるのですよね。

    しかし、実際には、両方が同時に存在し、そこには葛藤も矛盾もないのですよね。



    更新を楽しみにしております。

    返信削除
    返信
    1. Ambhoさん
      コメントありがとうございます。

      目覚めというものは、ごく浅い初期段階であっても、
      まるで完全な真実を知ったかのように錯覚してしまうことが多いのだと
      この後話していました。
      まだ半分眠ったまま、二元性にとらわれたままのアドヴァイダの「師」もかなり多いのかもしれませんね。

      またシェアしたいものを見つけたらアップしますね。
      ありがとうございます。

      削除
    2. そうなのですね、目覚めというものは、ごく浅い初期の段階であっても、まるで完全な真実を知ったかのように錯覚してしまうことが多いのですね。

      そう言われてみたら、私の近くにいるアドヴァイタの師もその通りかもしれません。


      苦しんでいるのに、苦しんでいる者はいない!!

      の一点張りですから。


      気づいているものに気づき、定まる

      という点では素晴らしいのですが・・・



      私の場合は、ラマナ・マハルシの「あるがままに」を手に取り瞑想が深まった後、感情が噴き出して大変な体験をしました。

      その後、ヒーリングに出会い救われました。

      なので、目覚めだけがすべてではない、という思いが強くあります。

      だって、「目覚めだけがすべてで、あとは幻想に過ぎない。」という思いに囚われたみまま死んだなら、

      またすべてを忘れて生まれ直し、一からやり直さなくてはなりませんからね。

      削除

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