2013/06/19

「他人」から自由になる

こちらから訳しました。






<質問の手紙>

もし私が すでに自由そのものであるのなら

なぜ いまだに観念に囚われてしまうのでしょうか。






誰かに対して抱いている観念など

真実ではなく幻想だと分かっているはずなのに

ある2人の人物に対して

どうしてもイヤな気分になってしまいます。





こんなふうに根付いてしまっている習慣から

なかなか抜け出せません。

今すぐ自由になりたいのです。












<ムージ>

あなたの手紙は

「もし」という書き出しで始まっていますよね笑






「もし」を取り除きましょう。




あなたは すでに自由そのものなのです。







でも本当にそう確信していなければ

いくら頭で言い聞かせても足りませんね。







「もし」という条件付けがなくなって

自分はすでに自由そのものなのだと確信すれば

あとのことは全て

委ねていれば大丈夫なんですよ。










<質問者>

引っかかっているのは

ほんの一部の出来事だけなのですが

その ほんの一部が足かせになっているのです。

なぜ引っ張られてしまうのでしょうか?










<ムージ>

なぜ私たちが

こんなことに囚われることが出来るのだろうか?

という角度で話してみましょうか。





真実に生きていると

この質問のようなことは問題にならないのですから。




本来の自分は

人間関係などで悩んだりしないのです。









では なぜ

あなたは すでに完全な真実そのものなのに

こんな幻想に囚われてしまうのでしょうか?













それは


私たちはどういうわけか

目に見えている体や心が自分であり真実だと

思い込むようになっているからですね。







そのように混乱していると

この質問のような人間関係が

まるで大きな問題のように思えてくるのです。






この体を自分だと思い込んでいるわけですから

他の体を見ると

「自分とは別々の存在」と思い込むんですね。







「あの人と私は明らかに別々の存在。

 しかもあの人は男性でくま 私は女性なんだしうさぎ

 ぜんぜん違うよね」



そんなふうに信じているのですね。









でも日常でいつもいつも

「私はこういう人」という自己イメージを基盤に

考えたり感じたりしていますか?






それとも

その時その時で考え方や感じ方は様々でしょうか?






「これがあなた」という

常に一定のものなんて無いんですよ。




自己イメージなど関係なく

まっさらな感覚になることもあるでしょう?






目に見えている体が自分だと信じて

「私は特定の個人という存在」

という感覚が強くなると




他の人に対して

「自分とは別々の存在」

という感覚も強くなり

相対的な「個」という観念が大きくなるのです。








美しい自然を見るだけでプルメリア

我を忘れて

自分という感覚など消えてしまうことがあるでしょう?



でも誰かに話しかけられると

またたく間に

「自分と他人」という感覚がよみがってくるのですね人






たとえ大勢の人と一緒にいても

「自分と他人」という区別など無い人もいて


そういう感覚は

本当は誰の中にでもあるんですよ。












でもその感覚に気付くまでは

普段みんな

「特定の私」という自意識があって

他人の目を意識しながら生きていますよね。









たとえば

くつろいでいる人たちの前にカメラを置くとVideo orange

録られていることを意識して

急にぎこちなくなるでしょう笑





カメラにフィルムなど入っていないかもしれないのに

急に姿勢を正したり 見栄えをよくしようとしたり。

自意識によって自分を演じるわけですねサタデーナイトフィーバー









私たちも

個人という自己イメージを基盤にして生きているとき

自分を演じているのですよ。







だから私たちは

人に見られていたり 誰かといっしょにいると

人の期待に沿うような言動をしようとして

疲れてしまうのですカピバラさん(お風呂)







でもそれは

「そうしないといけない」と

自分で勝手に思い込んでいるだけなんですよ。






そんなふうに振る舞ってほしいなんて

誰も思っていないかもしれないのに。







ありのままのあなたでいてくれたほうが

相手もありのままの自分でいれて喜びの舞

嬉しいかもしれないでしょう?






なのに私たちは

「こういう振る舞いを期待されている」という

思い込みに囚われていることが

とても多いんです。












たとえば

こんな例がありました。









ある日 2人の人が

ロンドンまで私に会いに来たことがあります。






その2人は

それぞれ別の時間帯に私と面会の約束をしていて

別々に来たのですが 偶然2人とも

ダブリンの同じ街の人だったんですね。







まず1人が先に来て

私と1対1で素晴らしい面談をしました。







ひととおり話が終わって

そのまま静かに残りの時間を過ごしていたとき







もう1人が次の面談にやって来ました。








約束の時間より少し早かったのですが

外は雨が降っていたので雨

すぐに家の中に入ってもらい



少しの間その2人は

同じ部屋で居合わせることになったんですね。











私がキッチンでお茶をいれているとケトル

2人の小さな話し声が聞こえてきました耳






私はヒソヒソ話されるのは嫌いなので

手にカップを持ったまま部屋に戻り

「何を話していたの?」と

しかめっ面で聞くと








先に来ていた1人はこう言いました。







「面談の後は

 本当はただ黙って静かに過ごしたいのですが

 彼女がやって来たので挨拶しました。

 すると同じ街の人だと分かったので

 儀礼的に世間話をしていたのです。」 












そしてもう1人はこう言ったのです。






「本当は一人でただ静かに過ごして

 あなたとの面談に入りたかったのですが

 部屋に入ると彼女がいてびっくりしました。

 同じ街の人だったので
 
 何となく合わせて世間話をしていたのです。」 










つまり2人とも

本当は話をしたくなかったというのです笑







なのに なぜ

2人は世間話などしたのでしょうか?








社会的な条件付けですね。












<質問者>


昨年ここに来たとき

あなたからこう言われたのです。


「あなたは今とても大切なものに近付いているから

 社会的な人付き合いや活動から

 しばらくの間 遠ざかるようにして
 
 その後また普通の生活に戻るといいでしょう」







そして

その通りにしてだいぶ順調に進んだのですが

さっきの手紙に書いた2人のことだけが

どうしても引っかかってしまうのです。










<ムージ>

外側の状況が完ぺきになるのを

待たないでください。



外側で起こることを

自分の期待通りにしようとしないでください。






カギになるのは自分の中です。

自分自身に意識を向けてください。








そうすれば

そんなことへの囚われは

徐々に弱まっていくでしょう。









まっさらな自分という存在に意識を向けていれば

外側での出来事など気にならなくなります。





どんな人が現れても

あなたに影響を与えることなどできなくなるのです。







それが

ただ在ることの素晴らしい力なんですよ。







でも外側の状況が変わるのを待っていたら

その力の恩恵は得られないでしょう。











<質問者>


ある先生から

「もっと注意力を高めなさい」と言われたのですが...









<ムージ>

おやおや...笑




私はそうは思いませんよ。


注意力を高めるのではなく

もっと意識しましょうと私なら言うでしょう。





でも意識はもともと在るものなので

意識を培うという意味ではなく

もともとそこに在る意識に

気付いていなさいということです。







あなたが意識そのものなんですよ。







意識が存在として現れるために

私たちの体や思考があるわけですが






体や思考が自意識を創り出してしまい

「個人」という

二次的な存在が出来上がっているのですね。







もちろん個人も

真実の現れなのですが

条件付けされていて制限のある自分なのです。







そして人生のある時点で

とても窮屈に感じてきて

もういちど無限の存在に戻りたくなるのです。










私たちが

スピリチュアリティーに惹かれ始めるのは

そういう理由なんですよ。






私たちの中の何かが

「この体や心だけが本当の自分ではないはずだ」と

何となく感じて

本来の自分の場に戻ろうとしているのです。










でも思考に注意を向けると

必ず何らかの条件付けに囚われて

「まだまだ本来の自分になっていない」

などと考えてしまうのですよ。






そんなのは全て単なる観念です。

あなたはすでに自由な意識そのものなんですから。










<質問者>


それでは

頑張らないでリラックスしていればいいんですね?











<ムージ>

もちろんです。

頑張ろうとしているのは誰なんでしょうか?

それは本当のあなたではないですよね。







何も頑張る必要などありません。

あなたが戻ろうとしている本来の自分は

もともとそこに在って

何もかも完全なのですから。





頑張って何かを達成しようしているのは

偽りの自己イメージですよ。








とても親密に感じるだろうけど

偽りの自己イメージは あなたではなく

単なる現象なのです。







その現象を自分だと思い込むと

制限さえも含めて

自己イメージを守ろうとしてしまうんですよ。








本来の自分は無限ですが

偽りの自己は限りあるものなので

時間切れになる前に

いろんなことを達成しようとして

それで様々な悩みや問題を創り出すのです。










しかし本来の自分に意識が戻ると

何もかも全て完ぺきなのだと分かってうさぎ

悩みや問題など消えてしまうのですよ。










再び思考が動き出すと

また心が忙しく動き回るでしょうが

もうそんな思考に気を取られることはなくなり

のんびり観察していられるようになるのです。








そして

本来の自分という完全な調和に

ずっしりと根を下ろして

ハッピーでいられるのですよハート








ですから

条件付けによって創られた問題を



「あの人とのトラブルさえ無くなれば...(=´;ω;`=)」などと



解決しようとしなくてもいいのです。




ただ

本来の自分に意識を戻していてください。











幻想に囚われている間は

とても重要で大きな問題のように思えることが






本来の自分に意識を戻すと

何でもないことだったと気づいて




そんなことで悩んでいた自分が

正気ではなかったのだと分かってえへ

全て消えていくのです。











たとえば

アルコールを飲み過ぎると

アルコールの影響を受けた考え方や話し方をして酔っぱらいおやじ。



酔いが醒めると

自分がまともじゃなかったと気付くでしょう?





そんな姿をビデオに録られて見せられたりしたら

「こんなの本当の私じゃないかお

と言いたくなるでしょう笑








幻想から目覚めるときも

そんな感じなんですよ。



 

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